「この映画は、若松孝二に撮らせる !! 撮れるのは彼しかいない」
と、断言する。
なぜなら、その渦中にいた映画監督こそ、彼なのだから。

時代は終焉を迎えていた。
戦後と呼ばれた日本が終わり、この国の“いま”が始まるときだった。

1972年2月、連合赤軍の兵士たちは「あさま山荘」を占拠した。
猟銃やライフルの銃弾が、包囲する警官たちをなぎ倒していった。
雪の別荘地で繰り広げられたのは、日本の歴史で初めて起きた、革命のための銃撃戦だった。

若松孝二もまた、「あさま山荘」への道を歩んできた。

1963年に『甘い罠』で登場した彼は、“ピンク映画”と呼ばれるジャンルを確立し、数々の名作を生みながら'60年代後半を団塊の世代とともに疾走した。
そして、「あさま山荘」で銃撃戦が起きる5ヶ月前には、ドキュメンタリー『赤軍-PFLP世界戦争宣言』が公開され、その上映運動が日本からパレスチナへ戦士を送り出した。
銃撃戦の翌月、テロの時代の訪れを知らせる『天使の恍惚』が封切られた。
それは、連合赤軍の同志たちが山中で粛清されていたことが明らかになった直後だった。
若松孝二の作品は時代を表すのではなく、時代そのものを生んできたのだ。

しかし、時代が変わっても、若松孝二に終わりはなかった。
'76年にプロデュースした大島渚の作品『愛のコリーダ』は日本の映画界に衝撃を与え、'80年代には『水のないプール』が新たな地平を開き、『寝盗られ宗介』は'90年代の代表作となった。
そしていま、'00年代、彼が行き着いた先は、やはりあの冬だった。

若松孝二はつぶやく。
「……俺は、オトシマエをつける。真実を伝えたいんだ」

'74年、盟友の足立正生が日本赤軍に合流すると、彼は足立に会うためにしばしばレバノンを訪れ、その結果、警察の執拗な家宅捜索を受けるようになった。
若松孝二の名は日本赤軍の黒幕として伝えられ、その噂がときには映画の制作を妨げた。
彼がいまだにアメリカへ入国できないのは、アメリカ政府から“国際テロリスト”とみなされているためだ。
若松孝二は表現者であるが故に、自ら感じた国家権力へのその怒りを忘れない。

1960年代から'70年代にかけて日本の体制を揺るがせた学生運動は、連合赤軍が占拠した「あさま山荘」で終わりを告げた。
そこから、現在の日本が始まったのだ。
1972年に刻まれたメッセージは、粛清された同志たちの死が語るのではなく、10日間にわたる銃撃戦のなかにある。
銃口は、いまも、日本の“この時代”に向けられてられている。

「あさま山荘」に至る道は、どこにあったのか?
包囲された山荘のなかで、何が起きたのか?
若松孝二は“あの時代”を、どう描くのか……。

それを検証するために、私たちは若松孝二にこの映画を撮らせます。




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