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「あの時代」を生きる

12月21日

今日も昨日と同様、都内を転々としながら矢継ぎ早の撮影。おもに、連合赤軍のリーダーとなった森恒夫や、この映画の主人公でもある遠山美枝子の足取りが撮られてゆく。
森は、じつは赤軍派結成直前に、活動から逃亡した。しかし、今回の撮影で最初に撮られた'69年11月の大菩薩峠の事件(この日記の11月10日参照)で壊滅的な打撃を受けた赤軍派は、メンバーの確保のために、出身地の大阪に帰っていた森の復帰を認める。この逃亡が彼のトラウマになり、連合赤軍メンバーの「総括」につながったのではないかという、見方もある。

森が大学の先輩でもある赤軍派政治局員の田宮高麿(翌'70年3月、日航機「よど」号をハイジャックして北朝鮮へ脱出)から復帰を許されるシーンは、多摩川河口を淀川に見立てて、羽田付近で撮影された。

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020002_1 連合赤軍の榛名ベースで殺された遠山美枝子は、のちに日本赤軍のリーダーとなる重信房子の親友だった。遠山は通っていた明治大学で、重信からオルグ(勧誘)されて学費値上げ反対闘争に参加した。二人は「ミエコ」「フー」と呼び合う親友になり、重信が日本赤軍を結成するためにレバノンへ脱出した('71年2月)とき、最後に彼女を見送

020003_3 ったのも遠山だった。                                                                                                               
じつは、この遠山と重信は若松監督と深く関わっている。
若松監督が'71 年夏、足立正生と、パレスチナの闘争を描く『赤軍-PFLP 世界革命戦争宣言』を撮影したとき、現地で協力したのは重信だった。その後足立が日本赤軍に参加し、若松監督は彼らに会うため毎年のようにレバノンのベイルートへ通い始める。

遠山は、その映画『赤軍-PFLP 世界革命戦争宣言』の上映運動のために、当時原宿のセントラル・アパートにあった若松プロに出入りしていた。
そういった彼女たちとの実際の関わりが、この映画製作に対する若松監督の大きなモチベーションになっている。登場人物同様、彼もまた「あの時代」を生きたのだ。重信と遠山が登場するシーンは、若松監督のおなじみの場所、新宿ゴールデン街でも撮影された。

(上、若松作品を高く評価する社会学者・宮台真司も応援に。下、伴杏里が演ずる重信房子)

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コメント (4)

せん:

はじめまして。
このブログの更新を楽しみにしている者ですが、
あの、、日付が間違ってますよー!

制作者:

申し訳ありません。
カレンダー上の日付は、書き込みが完了した時点のモノです。
したがって、書き込みが午前0時を過ぎたり翌日になると、自動的に変わる日付と撮影日記の日付が異なることもあります。
ご了承をお願いします。

匿名:

話が噛み合ってない(笑) そうじゃなくて、日付が「11月21日」になってるってことでしょ。

制作者:

失礼しました。
訂正いたしました。
ありがとうございます。

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2006年12月22日 10:12に投稿されたエントリーのページです。

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