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2013年06月 アーカイブ

2013年06月03日

若松監督のハートビートが聞こえた夜

6月1日夜。テアトル新宿。

阿部薫の乾いたサックスの音が響き、
「十三人連続暴行魔」の貴重な35ミリプリント上映が始まった。

オーバーオールを着た冴えない小太りの男が
自転車に重たげな身体を乗せて
河川敷や工業地帯の間を走り回る。
向こうには、発着を繰り返す飛行機。
成田空港開港の新聞記事。
1978年という時代の匂いをまき散らしつつ
しかし、映画は終始、男のお尻と犯される女の裸体
打ち込まれる拳銃の音が、ひたすらひたすら繰り返されるのである。
途中で、「17歳の風景」(2005年公開)だ!とはっとするようなモチーフや
映像の切り取り方が現れるのだけれども
とにかく、ひたすらひたすら繰り返される暴行。

阿部薫のサックスの渇望が画面から溢れ出す瞬間や
記号のように繰り返される行為そのものの感じ
なぜか長期間いたぶられるのは婦人警官。
若松孝二の脳みその爆発がそのままぶちまかれたような画面に
思わず、お腹の力が抜けていくようで
でも、自由だ、自由なんだ、文法なんてないんだ!と吠えていた
若松孝二がそこにいた。どっぷりと再会できた60分。

そして、上映後には、
若松作品「エンドレスワルツ」で阿部薫役を演じた町田康氏と
若松孝二とは長年の「不良」仲間だという山本政志監督が登壇。
 
DSCN0082.JPG
 
開口一番、山本監督が切り出す。
「俺、前にもこの作品観てて、結構好きだったと思ってたけど
 今観ると、メチャクチャだね、これ。性欲のカタマリかって(笑)。
 さらには、なんで婦人警官だけ、あれだけ長々と監禁するのかってさ」
思わず、会場から笑いが漏れ出す。
そうだ、みんなして、監督の悪ふざけを息をつめて60分も凝視してたのだから。
すかさず、町田康さんが応じた。
「これ、永山則夫とか、社会に対する破壊的な衝動とか
 そういうものだと考えると、これ訳分からんよね。
 そうじゃなくて、これは神話なんだと。
 現実の社会のリアルの中で考えると訳分からない作品だけど、
 神々の事だから。
 神話をリアルにやろうとすると、ああいう生々しさになると思う。
 性と暴力と。
 普通の常識から観ると「女をモノ扱いして…」となるけど
 多分、見方が全然違うんだろうと思うんですけど。
 実際の若松さんの意図はどうかわからないけど」
山本「無機質に斬り込みたかったんだろうね」
町田「僕は、やっぱり神話だな、と思った。
 最後に処罰されるじゃない。もっと強大な神に。
 しかし、これ、実際に十三人もやられてました?」
山本「やられてないだろ。語感がいいからでしょ。
 九人連続暴行魔じゃ中途半端だしさ。六人もちょっとね、やっぱ十三でしょ」
町田「JAGATARAの『岬でまつわ』って歌も実際に岬って喫茶店があって
「岬でまってるわ」って言ったら、そのままタイトルになったって。
 でも、タイトルってそんなもんでしょう」

作品について、ひとしきり語った後、若松監督という人について。
町田「普通、監督って、自分の演出に酔っているというか
 情熱をもって、いいものを納得いくまでやりたい!というのがあるけど
 若松さんは、とにかく、「今日もまいて終わった」「今日も早く終わった」って
 早く終わらせる事に命かけてるっていうか。
 そんなに早く終わらせたいんかい!って(笑)
 合理的というか、何か、よく考えがつかめないっていうか。
 演出も、ちゃんとみてんのかみてないのか分かんないし(笑)」
山本「よく車買い換えてたしねえ。
 何が一番儲かった?って聞いたら、「『愛のコリーダ』(プロデュース作品)と
 軽井沢の土地転がし!」って言ってましたからね(笑)。
 僕は大学受験で上京して面接の時に「好きな監督は?」って聞かれて
「若松孝二と小川伸介です」って答えたら落とされた。
 「山田洋次です」とでも言えば良かったと思ってさ(笑)。
 でも、高校時代はまだ作品を観たことはなかったんだけど、
 生き方に、うわー、と思ってて。やってる事メチャクチャだしさ。
 それで、上京してから特集上映で、「犯された白衣」や「ゆけゆけ二度目の処女」とか
 一気に作品を観たんだよね。言葉がちょっとインテリっぽいなと思ったけど
 でもそれも面白くて、毒性がすごくあって、キバを剥いていて。
 大きな流れの中で一人だけ、ぐっと流れをかきわけて上がっていく感じで。
 しばらくしてから、実際に会ったら、これがヘンなおじさんだから
 ますます好きになって。若松さんって、俺の中で、特殊な人間なんだよね。
 尊敬でもない、何だろう、心の中に若松孝二がいるんだよ」
町田「一度、紀伊國屋ホールで「新宿のイベントやるぞ」って言って
 よばれた事があるんですけども。かつての新宿が面白かったっていって
 唐さんとか原田芳雄さんとか出ていて、僕もなぜか詩の朗読をして
 楽屋ではみんな、待ちの間からガンガンに飲んでて、
 結局あれは何のイベントだったんだろうっていう(笑)
 映画監督って高学歴の人が多くて、大抵、マルクス主義とかってなるけど
 若松さんだけ、毛色が違ってましたよね。
 暴力革命、それだけ知ってりゃいいっていう」
山本「思想関係ない。心情的なものなんだわ」
町田「連合赤軍もそうですね。思想じゃなくて心情」
山本「虐げられてるところへのまなざしははっきりしてるっていう。
 若松さんは、自分の中でほんとに特別な存在。
 まさしくインディーズで、ケンカ売りながら生きていた。
 若松さんに会えたのは幸せな時間だったし、自分の中には
 まだ若松さんがいるし。それで、「政志、何してるんだ!」って
 言われるんだろうな、でも言われたら「うるせえ」って思うだろうな、
 でも、それを励みにするだろうな、と」

会場からいくつかの質問が出た。
ー若松孝二とのなれそめは?
町田「山本監督の「熊楠KUMAGUSU」の現場で会った。
 若松監督たち全員が映画監督という宴会シーンの撮影で。
 その時、僕が礼儀正しくて、ちゃんと挨拶して
 飲み物を運んだりしたんで、「あ、コイツはいいな」と思ったって。
 (それで、エンドレスワルツ出演につながる)
 挨拶はした方がいいんだな、という事で(笑)」

ー「連合赤軍」「三島由紀夫」政治的な題材が気になって観ていた。
 最近のこうした題材とかつてのピンクにこめられたものとの共通点は。
町田「若松さんは政治的題材を扱っているけれども
 現実の政治というモノと政治的なモノは、違うんだろう、と。
 若松さんは、現実の政治、主義を描くのではなく
 詩的でロマンチック。人間が持っている根本のところで腑に落ちる。
 やっぱり、神話のようなものを描いてると思う」
山本「『キャタピラー』は反戦映画って言ってたけど
 あれ、ウソだからね。やってることは同じだよ。
 時々ウソもつくから、若松さんは。
 そこがチャーミングなところなんだけど」
町田「捕捉すると、ウソはいけないか、と。
 本にはオビってあるでしょ。あそこには、売るために
 ちょっと違うかなーって事を書いたりもする。
 宣伝のためであって、中身は別にちゃんと存在してるわけで。
 僕は、言ってる事がウソだとか、矛盾があるとか
 そういう事が良くないって言うのは、そんな事ないよ
 そんなもんだよ、というのがあるんですね」

山本監督プロデュースの実践映画塾「シネマインパクト」から
生まれた映画作品も、これから続々と公開。
山本監督も自身の監督作品「水の声を聞く」
「ちょっと真面目な映画をちゃんとやろう、と。
 9月までには撮影を終えようと思っています」との事。
未完の「熊楠KUMAGUSU」についても
主演の町田康さんと、時折、酒とともに思いを語り継いで
今も懐の中で温め中である。

いつだって、ものづくりをせずにはいられない人
思いにつきうごかされて表現へとひた走る人たちの言葉は
現在進行形だから、ヒリヒリじりじりと響いてくる。

若松孝二の形はいなくても、
「自由なんだよ!決まったやり方なんてないんだよ!
 想像だけは、最後で最高の自由なんだよ!」と吠え続けた
若松孝二が、そこかしこに充ち満ちていた。
空気が入った夜だった。

会場に来て下さったたくさんのお客さま
ありがとうございました!

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2013年06月10日

2013.6.1.2シネマ尾道レポート「井浦新×大西信満若松孝二を語る!」

6月8日から21日の「若松孝二監督追悼特集」に先駆けて、6月1日2日シネマ尾道にて「井浦新×大西信満 尾道で若松孝二を語る!」トークイベントが行われました。梅雨入りし足元の悪い中、沢山のお客様が全国から尾道へ駆けつけて下さいました。
井浦新さんと大西信満さんが初めての若松組参加となった「連合赤軍」から「千年の愉楽」までの5作品を作品ごとに全てを語り尽くすという2日間に渡る若松映画ファンにはたまらなく贅沢な大プログラム。
会場は満席を超える熱気の中、まずは「11.25自決の日三島由紀夫と若者たち」の上映後、ご登壇いただきました。

井浦 皆様こんにちは。今日は尾道にお招きいただきありがとうございます。時間の許す限り、2日間僕達の話をぜひ聞いてください。
この作品では集中するしかすることがなく、細かな記憶が途切れていて思い出が語りにくい作品ですが、大西君が現場でよく怒られたり寺島さんや美術さんのサポートをしていたのは記憶しています。
大西 若松監督は、あの当時研ぎすまされていた。新さんは新さんで、役が降りて来ていて、かかとの骨を折って無茶をしたりと「狂気」があったので僕ぐらいしか新さんと話せなかった。監督は、僕づてに新さんの様子をうかがったり、役者同士のパイプ役もしていました。人間関係の結びつきは、カメラの前だけでやってもバレるので、そこをしっかり作りたいと思った。
井浦 この後に上映する「海燕ホテル・ブルー」は名作です。「三島」の2週間後に撮り始めた作品で、二つはどこか繋がっています。「海燕」はスタッフキャスト含めて15人ぐらい、そんな事は一般の映画ではありえないし純粋な若松組のみの撮影でした。「三島」と「海燕」は真逆で面白かった。
大西 現場に人が多いと若松監督は、ピリピリする。短期間で数本撮るといったように、お金も人も無駄が嫌いで、常に合理化を求めていました。そう言えば…。新さんは「三島」をやってから変わったよね。それ以前は、話をしなかったから困っていた。やりきった役は、ちゃんと落とし込めていて生涯消えないものだと思った。
井浦 監督は、スケジュールも何もかも全て自分でやるので、「三島」の時監督と二人でいろんな所を回って、それに鍛えられました。
大西 話さなかった新さんが、いきなりトーク番組に出ているから驚いた。(会場爆笑)自分も全国で話させてもらっているけど、しかし新さんは「連合赤軍」の時は何もしゃべらなかったよね。
井浦 でも、大西君も「キャタピラー」の時は話さなかったじゃない。
大西 そうゆう役だから…。
井浦 若松監督は、トークイベントでたまにキレる。監督はマイクを持つと一人で話してしまうので自分で割り込まなくてはいけないから、自分から話せるようになった。きっと「キャタピラー」の時、シネマ尾道でも監督、時間押したのでは…。それだけ伝えたいことがあったのだろうと思う。「俺が撮りたいのはお前らの顔なんだ」と、監督はよく言っていた。事実を知る必要もなく、もしそこに自分がいたら自分はどうするか、それが重要で監督が撮りたいものだった。だから表情のアップが多い。
大西 客観的事実をなぞるだけのものには興味はなく、なぜそうなったかという人の気持ちを撮りたいと思っている監督だった。ただの狂気を撮るのではなく、彼らにどのような熱い気持ちがあったかという、先人に対するリスペクトだったように思う。

話はますます盛り上がり、質疑応答タイムへ。

お客様 お二人が監督に影響を受けた所、また尊敬している所は?
井浦 一番は生き方のところ。人生論などは話さなかった監督でしたが、どのように生きているのかという監督個人の生き方に影響を受けました。役者としてではなく、一人の人間として作品に関わるよう追い込まれる。追い込み方として、サバイバル的な価値観や経験から求められる。それに食らいつくのが必死でした。何を考えているのか自然に察知できるよう、監督は仕向けていたのかもしれません。若松組の訪れたロケ地は、訪れる前よりきれいになる。枝が役者の顔にかぶることもそれが現実でよしとしていました。他の監督のように家がじゃまだから消すなんて絶対にしない。「千年の愉楽」でもそうだったのですが、その時代にないものを写して作品にする事を恐れなかった。それは、一番伝えたいのは人の心だったから。そこに集中すれば、電信柱なんてどうでもいい。少ない予算がベースにあったとしても、そんな監督の考え方に勇気をもらいました。
大西 このテーマだけでもオールナイトできますが、若松監督は人のために何かやることがとても多い人でした。「キャタピラー」は賞をもらったので動員が見込めるし、いろんな映画館からオファーが来ていたのですが、それよりこれまでの映画を流してくれた人を優先していました。損得を越えて、人は一人で生きていけないから、人との繋がりを大切にしていた。
井浦 あたり前の事をあたり前にすることは難しく、いつもの仕事を自分の積み重ねてきた知識だけで動こうとするな、知ったかぶりするな、という役者も監督も特別な仕事ではないといつも言っていました。何より監督は、軽薄な人間が大嫌いでした。僕らはうまく立ち回れるようなタイプではないので、人前で話す機会を与えてもらえて、大事にしてもらえて若松監督に感謝しています。


午後より「キャタピラー」上映後、2回目のご登壇。
井浦 「キャタピラー」について話すのは久しぶりです。軍人その1を演じました井浦新です。
大西 えっ!?その2でしょ?僕顔半分ないけど…新さんの方がセリフ多いよね。
井浦 一日で帰ったのにね。
大西 愛国心などを語る映画にしたくなかった。そんなに誰にでも好かれるような作品でもないのですが、兵隊だけでなくその家族が戦争によってどんな思いをしたかなど監督も戦争を経験しているので、その事をそうしても描きたくて。
井浦 観る人が目を覆いたくなるような作品だけど、戦争は何も生まないという事を追及していて監督はそこを描きたいと言っていました。
大西 誰もがそうなる可能性がある時代だった。夫婦関係だけでなく、個人すら保てない時代への監督は批判もあったのだと思う。女性は子供を産むための道具であるという時代への批判。手足を失い言葉を失い人格も破綻して帰ってきたという事の自業自得と言うか…男が女に道具である事をあたり前に思う事をさせた国家をすごく否定されていました。
井浦 監督は女性への敬意に溢れている方。女性のレイプを撮っていたとしても監督はその行いをした男性を否定していて、「千年の愉楽」もそうでしたが、監督はいつも女性に優しい眼差しを向けていました。
大西 若松監督と濃い関係を築いてきましたが、よく女性に対する気持ちの事を言われていて、監督自体は男の塊のような方ですが…。「キャタピラー」はよく女性に反感をかわれますがそれは違っていて、監督も子供ながらに国や女性に対するものに違和感を覚えていた。「国家として始めた戦争を個人が引きずるんだ」という事を、全国を舞台挨拶で回った時に、お客さんに言われ印象に残っている。ちょっと視線を引けば無駄なことだと分かるが、渦中の人はそんな事は思えなくて、その気持ちを映画に残したいと監督は言っていました。
井浦 「キャタピラー」はおだやかな現場であったという印象。
大西 そうだね。淡々と静かに撮影していたという印象。今の若者がどうやっても出てこないものを監督は引き出してくれた。連合赤軍の時は常に毎日ご飯を食べていくような仲間を意識させるような撮影でしたが「キャタピラー」の時はみんな勝手にご飯を食べていた。本当にこれが若松組なのかと思うぐらい…。井浦さんが現場にいらっしゃった時、本当に久しぶりに人と話した。
井浦 監督は大西さんの芝居を「わーわー言ってるだけで、楽な仕事だなぁ」と言っていました。まぁ、もともと褒める監督ではないのですが。
大西 監督は自分にしか文句を言わないのだけど最後に呼ばれて「お疲れ!一番高いステーキ食っていいぞ!」とご馳走になって。でも、話す事なくて…。で、最後に「お疲れ!」って言って帰った。監督は本人には何も言わない。よく僕と新さんとで映像を撮ったけど「キャタピラー」の思い出はあまりないような…。
井浦 違うんだよ。若松組で主演をやるのはとてもプレッシャーのかかる事なんだよ。三島もそうだったようにだから余裕がなくなる。
大西 若松監督は100本以上戦争映画を撮っているけど、こんなストレートなものは初めてで監督の気持ちを考えた。最後のシーンで錯乱状態を撮った時、頭に本当に怪我をしていて病院に行って縫わないといけなくて髪を剃らないといけなかったんだけど、撮影中だから剃るわけにいかなかったから医療用ホッチキスで留めていて。そしたら監督が飲みに誘ってくれて。このタイミング!?と思ったけど断れなくて。おかげで翌日は枕が血だらけだった。その飲みの時も会話は「美味い」としかなかった。言葉はなくても監督の背中を見て教わってきた。
井浦 監督は、僕には話してくれる。移動中は二人でいると大抵どちらかが話しているけど、大西君の時は結構無言みたいで。
大西 そうそう。監督はせっかちで二人で5時間ぐらい無言とか。宮城から北海道に行く時、青函トンネルを楽しみにして通りたかったみたいで6~8時間。でも、トンネルから海なんか見えなくて監督不機嫌になっちゃって無言みたいな…。
井浦 大西君が連合赤軍の時も何を言っても大丈夫だと言うのを監督は見ぬいていて、僕がミスをしても大西君が怒られる。二人は気を使わないで一緒にいられたんだろうなと思う。
大西 でも無理してしゃべらなくてよかったんだから、しゃべらない時間の中でいろんな事を受け取ってきたのかなぁ、とも思う。僕たちは結構一緒にいるけど、真逆だったね。
井浦 「キャタピラー」でのた打ち回るシーンはホントによかったと監督は言っていたよ。
大西 「連合赤軍」でも「キャタピラー」でも僕が怪我をするから、監督は根に持っていた。監督は美術や小道具にこだわるのが嫌いで、そんな中血だけのシーンもあって僕はフリをしてはいけないと感じていた。音を乗せたり痛がっているフリをしてはいけないと思った。そうする事で映画を無駄にしてはいけないと思った。映画ではフラッシュで画面を切り替えたりしているが現場は15分ぐらい回し続けていて。その演技を何度も出来ないし、すごく静かなのに怒号が飛ぶみたいな。目薬で泣くことを許す監督ではなかった。自分で泣く準備をしていたのに耳元で監督が「泣けー!」と叫ぶから全て飛んでしまった。(会場大爆笑)

トークが盛り上がる中、質疑応答タイムへ。

お客様 夫婦が通じ合っていないと大西さんはおっしゃっていましたが、卵を投げるシーンなど印象的でそれによって通じ合っているようにも見えたのですが。
井浦 自分は大西さんと寺島さんを見ていると、本当に相性がいいなと感じます。寺島さんは大西さんに気を遣わなくてもいいからかもしれない。アドリブも多いと思うけど、そのアドリブも関係性があってこそだから。
大西 寺島さんとは以前もキツイ作品で共演していたのでそれもあって監督もそこを狙っていたのかもしれません。
お客様 大西さんの役は狂気溢れていましたが、オンとオフの切り替えはどうのように?
大西 撮影中は常にオンなんですけど、役に入るために僕は時間が必要で撮影以外はくるくるパーです。(笑)
井浦 大西さんは撮影1か月前から音信不通になります。言葉はよくないのですが、所謂役者キチガイなんです。大変なのは終わってからなんです。僕が知らない作品について語られるのは結構苦痛でした。でも付き合ってやんなきゃと思う。その時がオフになっていく時間なんだと思う。常にちゃんとしている人に僕は憧れるけど、僕は学生の時もテストは一夜漬けで、今も変わらないなぁと思う。
大西 でも新さんの方がしっかりしているよね。僕達本当に違うね。目指すところは一緒なんだけど、方法が違う。
井浦 大西さんは緊張していたり、僕には出来ない事が出来たり、見ていて面白い。自分も大西君も不器用な役者だけど大西君には負ける。監督は、不器用な方が好きで上手い演技が出来る事がいいと限らないと言っていた。
大西 僕はイリオモテヤマネコみたいだとよく言われます。けど保護して下さいって思います。しかし作品ごとに話せるのは嬉しいよね。
井浦 ここに監督が加わる事がよくあって、そしたら嬉しくて怒られるのは大西君かな~と思ったりして。
大西 今でも何年も前の事を話せるっていうのはとてもありがたい経験をさせてもらったと思う。「キャタピラー」の後にこの後上映の「海燕ホテル・ブルー」を観ると、口直しになるかもしれません。


だんだんと日も暮れて「海燕ホテル・ブルー」上映後、3回目のご登壇。1回目のトークでもお二方が勧めた作品だったので、話を聞き急きょ残って下さったお客様も多くおられました。

井浦 「海燕」は「三島」の2週間後、伊豆大島で「連合赤軍」以来の短期合宿でした。「三島」は2週間以内で終わっていたし、この作品は本当に無駄がなく少人数で10日以内に撮影は終わりました。仕上がった作品は、原作の面影もなく、大西君演じる警官なんていないし。現場で内容がどんどん変わっていった。この作品は、若松監督の脳内の映像。その現場にいると、監督がその日何を撮ろうとしているのか言うっていう形で撮影していた。60〜70年代の色が2000年以降で一番出ていたと思う。もっと監督は60〜70年は尖っていて、この「ホテル・ブルー」は監督の原点に立ち返っていてその時の監督の想像力を一番使っているのではと思う。この作品をまじめに見てはいけないし、出ている人はとても滑稽に見える。「三島」も「海燕」も外国の方に観せたら、「海燕」の方が受けて。撮影後、すぐ封ぎられていつ上映されたか分からないくらいで、存在すら知られていないぐらいで。でも僕らにとって思い出が深い作品。監督はいつも楽しそうだった。
大西 「ホテル・ブルー」はいつの間にか上映が始まっていて、いつの間にか終わっていた。レンタルにも置いていなかったりするので、こう言う機会は嬉しい。この作品は、若松監督を知らない初めてのメンバーでは出来なかったと思う。
井浦 そう。若松監督を知らないと出来ない。役者も役者以外の事をやったし、全部参加させてもらえた。若松監督の現場は、マネージャーは来てはいけないので、主演女優は裸にならないといけないし僕らはマネージャーのようになっていた。話し合いに参加させてもらったけど、その内容はコロコロ変わるし考えるのをやめた。若松組のセッションのようで1シーン1シーン思い入れが深い。
大西 僕はこの作品が集大成なのはいやだよ。(笑)でも、監督の中の大嫌いな警官役を演じさせてもらって、楽しかったです。新さんも監督も「三島」からの開放感があって、画に勢いが現れていたと思う。
井浦 「三島」の後、監督から「次の「海燕」では好きに遊べ」と言われてそれを真に受けた。100求められたら100を超えるぐらいでないと若松組ではやっていられないけど、この作品は起きてそのままのテンションで楽しく撮る事が出来た。衣装は、ほぼ監督の私物を着ている。監督の家である若松プロダクションのクローゼットで選んだ。赤いジャケットは、監督の還暦の時の服で、チェ・ゲバラのものすごい価値のある服で、カメラ目線で原発について話すとか、途中埋められた男の服はケミカルウォッシュのデニムパンツでそれも監督の年代物。「三島」の現場で「海燕」を撮るという監督のテクニッックであったのですが、そのシーンを終えて床屋でヤクザ風な髪にしてもらった。本当は3人が殴り合って殺し合うというラストだったのに、監督が急に「お前らみたいな素人の殴り合いを見ていて楽しいはずがないだろ。すぐ撃て!」と言われた。「撃たれ方も撃ち方も違う。お前ら拳銃ぐらい撃っておけ!」と。理不尽が嬉しかった。

質疑応答タイムへ。

お客様 ご自身の性格で好きなところは?
井浦 大西君と出会って、この人は信じる事が出来る人だなぁと思った。仁義の「仁」という字が大西君に当てはまる。彼は、小さな世界も大切にするし人の前に立たず自分のポジションや人を見て、人々の潤滑油になれる。監督にそっと寄り添う事が当たり前に出来て、それは目上の人だからという事ではなくて、優しさがあついところにあります。そう言う「根」を知っているので、そこを踏まえた役をしたり出来ます。
大西 同じようなこと、同じことを新さんに言える。好きなものが一緒というより、嫌いなものが一緒で、強烈に許せないものが一緒。その方が、一緒に物作りをするのには良いのかもしれない。チームプレイで仕事をするのに、一緒にやっていきたい、やっていけるなと思う。監督に対しても、同じ事が言えるかもしれない。まぁいいじゃん、と思う事が何をやっていてもあると思うんだけど、そこに対する純度に対する強さと優しさを取り戻してくれたと思う。
井浦 僕らはまだ30、40歳で監督からみるとガキだけど、監督の存在はこんな大人がいていいんだと思えた。このまま突き進んでいいんだと思う事が出来たし、何より勇気をもらえた。
大西 不思議と若松監督の現場は、人が見える。監督は、問い続け、突きつけ続けるので、普段はむき出しにしないものをさらす事が出来て感謝しています。
井浦 監督の意思は誰にも引き継げない。
大西 意思を受け継ぐというのは人が言う事ではないかもしれない。僕たちは何かを表現したい人の映画を、具体にするのが仕事で、監督から受け取ったものというのは持っています。
井浦 監督と仕事をしていたり、憧れていた人がもし「意思を継ぐ」というのなら、僕はその人を信じないし、許せない。意思というのは絶対に継げない。意思を継いでも監督は喜ばない。監督に作られた感性を役者として、DNAをまき散らしていきたいし、まき散らしていけると思う。
大西 関わった人たちがいい仕事をして、結果を残していくことが一番監督が喜ぶ事だと思う。それだけだと思う。

お客様 俳優になろうと思ったきっかけは?
井浦 最初はモデルをしていて、俳優に興味がなかった。芸能界とかどうでもよくて、その時物作りの仕事をしていたんだけど、その時映画をいろんな人が一つの作品を作っていくという意味で引き込まれて、若松監督の作品で役者に魅かれた。
大西 最初は裏方の仕事をしていたが、幸運なことに最初から大きな役をもらえて、でも何故か役を演じられなくて、それでその間は裏方をしていたんだけど、そういう時監督に「連合赤軍」の話をさせてもらって、それで自分の中でいろいろ変わっていけて。自分の中で呼び戻してもらったのは若松監督で、大きな要素だった。毎回毎回これが最後だと思って演じていた。自分が広がっていくのを感じた。自分で自分を許す事を監督に教えてもらった。新さんは、本当に変わったと思う。
井浦 「連合赤軍」の後から、自分を役者と言えるようになった。気持ちの伴う役者だと言える勇気がでた。
大西 名前もローマ字じゃなくなったしね。

トーク後各回全てサイン会付きというお客様にとって嬉しい時間が過ごせ、大盛況のうち1日目が終了しました。

一夜明け、トークイベント2日目。
1日目に続き、雨天の中にも関わらずほぼ満席のお客様。「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」上映後、ご登壇いただきました。

井浦 初めて監督の現場に行った作品です。この5作品の中で一番撮影期間が長く、監督の事や撮影方法、やり方など分からない事だらけで思い入れが深い作品。若松監督が「連合赤軍」を撮るってどうゆうことかを考えました。若松監督は命をかけて何かをよくしようという若者に共感していた。監督自身が裏側を体験しながら、シンパシーを感じていたのではと思う。若松監督が撮る「あさま山荘」がきっと美化する事もなく、歴史に残る作品になるだろうと思って、若松プロダクションに電話をしました。「オーディションやるから来なさい」と。
大西 若い人は「連合赤軍」に関心を持つきっかけもなかったと思うけど、知る機会もなく、知るのは親世代で。歴史って勝者がよいように語られている。30年前ぐらいでもあるにも関わらず、今も当時者が沢山いるのにも関わらず、あまり語られない。監督は、悪いものは悪いと言いたかった。
井浦 芸術は、映画は、権力側から作ってはいけない。権力側から描いた権力讃歌の映画を若松監督が観て、それもあるだろうけど、閉じこもった若者達の心情が一切描かれていない事に、怒りを感じていた。何を思っていたか、どのような事が行われていたか、話を聞いたり人質にひどい事をしている報道等が実際にあったが、中ではそんな事は行われていなかったり。なぜ閉じこもったかというと、国家をよくしようとする中でその集団の中で、小さな社会が出来、連合赤軍の中でのトップに従い動いていくという事を感じ、赤軍の中で何かが崩れていく。総括などのシーンも包み隠さず残す、粛正、そんなシーンを追体験することになったけど、キツかった。
大西 集団心理、山の中にこもり、20人ぐらいの中で自分の立ち位置。それは客観的に見ればおかしいのは分かる。けど、中にいると「おかしい」って言えない。演じてみて思った。「自分だったらどうするか」、当時の追いつめられた若者として自分はどうなのか。「まちがっている」と言える勇気、なかなか持ち得ないと思った。
井浦 やらなければ次は自分だという恐怖心、空気感、幹部の言う事を聞かなければという空気が現場にもあった。正義感の強い人程やってしまう。
大西 みんなも同じようになると思う。
井浦 小さな社会、学校なども一緒でね。
大西 彼らは、純粋に日本をよくしたいと思っていた。当時の彼らの手記などを読んで、この日本と後世のために良くしたいと思う、純度が高すぎるが故だった。
井浦 若松監督は「芝居はするな!」と言っていてその瞬間に自分達が感じた事を言葉に出して、ライブで若松監督の現場を掴んでいった。当時の若者達の心を掴んでいくのは簡単ではなかった。
大西 総括を受けるシーンがあったが台本とかなく、リアリティーが監督に伝わったのかも。
井浦 若松監督は、現代の政治家達は「命がけ」を簡単に言ってしまうが「命をかける」を本当に知らないから言うんだ。若松監督は、この映画で「本当の命がけ」を表したかったのではと思う。
大西 何かのため、国のため、自分じゃないもっと大きなもののために命をかけた若者の真実の姿を伝えたかった。

さらにトークセッションは盛り上がり、お客様も熱の入った質疑応答タイムへ。
お客様 「三島」も「連合赤軍」も命をかけることになった問題ですが、お二人は当時者だったらどのように行動したと思いますか?
井浦 銃を持って国会に突っ込むとか、そうはならなかったと思う。若松監督の言っていた「命をかけた若者がこれだけやっても日本は何も変わらない」というのも伝えたかった。それが、監督ができる事だったのでは。僕らは、自分自身の出来る事、表現を持って、芝居を持って、伝える事が出来る。何を思っていたかをちゃんと持って、そうして作品を作っている。
大西 自分が出来る事、日々変わっていくもの、役をすることによって知らなかった事や問題意識を持つようになった事など、作品作りを通じて、問題に向き合っていきたい。
お客様 若松監督は現代の人間について、また若者についてどう思われていたのか?お二人はどう思うか?
井浦 60年代70年代を体験されているから、若松監督は昔と今をより比べられたんだと思う。若松監督はよく「今の若者達はかわいそうだ」「嫌なものを「嫌」と言う事さえも忘れさせられている」と言っていた。嫌なものは「嫌」というのは、まっすぐな志なんだ。ただ今が悪いんじゃない。その時代だからこそ、爆発する人もいたが、中間の人もいるし、興味がない人もいっぱいいた。「結局、政治と教育が腐敗している。そこで生きている国民は大変だよな。でも、そこで終わらせない、映画が俺の武器なんだ」と監督は言っていた。閉じてはいけないものを開けて、歴史を知って、未来に行かなきゃいけないんだと思う。若松監督は、「俺は国が隠そう隠そうとすることを、どんどん暴いてやるんだ!」とよく言っていた。
大西 「連合赤軍」後、みんな諦めてしまった。戦争で傷ついた親に育てられる。みんなすごく敏感で、子供達が成人した時、ちゃんとなっていればいいなと思う。
最後に、この後上映の「千年の愉楽」についても触れ、トークを締めくくった。
井浦 若松監督の遺作になってしまった「千年の愉楽」は、監督の新しい一面を見る事ができる作品です。ずっとテーマにしている「女性への讃歌」の想いが詰まった作品。女性への想い、また国が隠そうとしている歴史や文化も描いています。ぜひご覧になってください。2日間、ありがとうございました。
大西 「千年の愉楽」撮影当時は、怪我をしていて出れませんでしたが、「東京で1〜2日撮影があるから来い!」と監督から言われて。「お前がいないのは嫌だ」と言って下さり嬉しかった。若松監督の優しさが一番出ている作品なので、皆様ぜひご覧ください。ありがとうございました。

若松組で培った、井浦新さんと大西信満さんの役者同士の固い絆と友情、若松監督への愛を2日間たっぷりと体感することができました。会場は、誰もが若松監督を想い温かい空気に満ちた、若松組とお客様の心が一体化したような、そんな素晴らしいトークイベントになりました。
このようなイベントが若松作品とともに、全国の映画館でどんどん広がっていけば嬉しいです。

シネマ尾道にて「若松孝二監督追悼特集」は、6月8日(土)〜6月21日(金)
シネマ尾道ブログhttp://blog.livedoor.jp/seijun_kawamoto/

2013年06月18日

日本映画プロフェッショナル大賞、若松孝二と井浦新へ!

6月15日。
雨の予報が、薄日のさす夕暮れだった。
夜もとっぷり暮れてから、にわかにごった返すテアトル新宿。
「日本映画プロフェッショナル大賞」授賞式が行われるのだ。

今回の授賞式には、万感の思い。
若松孝二悲願の「11.25自決の日」での井浦さん主演男優賞。
アジア国際映画祭でも受賞してくださったが
ここ、若松孝二の近作始動の場であったテアトル新宿にて
しかも、若松孝二にも監督賞が贈られるとあって
また、思いもひとしおである。

主催の大高宏雄さんが、受賞者一人一人を壇上へ呼び上げる。

主演女優賞の前田敦子さんに続き、
「主演男優賞、『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』『かぞくのくに』
 井浦新さん!」
首に若松監督の遺品のマフラーを巻いた井浦さんが壇上にあがる。

「若松監督からは、三島由紀夫という人物をなぞるのではなく
 お前という人間が、そこに存在してくれていればいい、と言っていただいた」
と、三島由紀夫を演じるにあたっての監督の言葉を語った。

サプライズで花束贈呈に現れたのは
『実録・連合赤軍』以来の若松組の同志、大西信満さん。

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「新に主演男優賞を取らせたいなあ」が、クランクアップ後の
若松監督の口癖だった。
監督の予想を超える熱量を見せてくれた井浦さんに
仁義を果たしたい、というような口ぶりだった。

そして引き続き、監督賞の発表。
「若松孝二監督。代理で井浦さんに受賞していただきます」
首に巻いていたマフラーを外し、
マフラーを持った両手で賞状と盾を受け取る井浦さん。
花束贈呈は「実録・連合赤軍」以降、若松作品の
初日公開をともに走ってきたテアトルの沢村敏さん。

若松孝二と井浦新。
二人が並んで受賞していたら、監督が浮かべるであろう満足そうな笑みが
たやすくまぶたの裏側に浮かんできた。
ブルーのダンガリーシャツを着て、ベストをはおって
帽子をちょっと上げて挨拶する監督の仕草まで見えてきた。

井浦さんは、映画業界を取り巻く激動の状況
特にデジタル化への急激な意向、地方ミニシアターの苦境などに触れ
「若松監督は、どんな地方の劇場への
 自分の足で作品を届け、自分の口で作品について語る事を
 決して怠らなかった」と語った。
「いつのまにか、メジャーの作品であればあるほど
 舞台挨拶は東京・関西・福岡のみ。
 そういう状況に当たり前の事として甘んじていたのでは。
 今、なすべき事は、何か革新的な事を打ち上げるのではなく
 原点に立ち返る事ではないか」と、静かに言葉を続けた。

「若松監督は、独立プロの最後の砦のような存在だった。
 自分で作品をつくり、自分で劇場に届ける。
 その事を、変わらずずっとやり続けてきた人だった。
 監督がいなくなってしまった今、自分たちは、映画の火を
 絶やしてはならない。作り手も配給も、真剣に
 考えていかねばならない」と語る一方で、客席に向けては
「これは、作り手の裏側の事情の話でしたが、お客様へ向けて、
 まだ、若松作品をご覧になっていない方がいらっしゃったら
 ぜひ、これから、若松作品と新たに出会って頂ければ嬉しいです」と
井浦さんらしい配慮と思いを覗かせた。

井浦さん、大西さんは、今月に入ってから
シネマ尾道や、富山のフォルツァ総曲輪へと足を運び
「若松孝二特集上映」に登壇して来た。
各地から、そのときのトークの模様、若松孝二からの学びを継承する事は
特殊な事をする事ではなく、日常を積み重ねていく事だという
そうした二人の言葉を漏れ聞いていたのだが
久しぶりに見た二人の顔は、いつもと変わらず穏やかだった。

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『さよなら渓谷』の初日を翌週末(6月22日)に控えて
多忙をきわめていた大西信満さん、
『日曜美術館』キャスター、テレビドラマ出演、写真展など
表現の幅が飛躍的に広がり同じく多忙の井浦新さん
ありがとうございました。

そして、若松孝二の監督賞受賞、井浦新さんの主演男優賞受賞
おめでとうございます。

今秋、再び『千年の愉楽』が都内劇場にて1週間上映予定。
今秋といえば、若松孝二の一周忌がやってくるのである。

あっという間だったともいえるけれど、
若松孝二不在となってからの
果てしなく長かった道のりを思う。

それぞれの歩みは続いて行くのである。

今週末には、いよいよ、若松監督もこよなく愛した
沖縄「桜坂劇場」にて、『千年の愉楽』がスタート。
舞台挨拶に、高岡蒼佑さん、井浦新さんが駆けつけます!
http://www.sakura-zaka.com/movie/1306/130622_sennenno.html

また、同じタイミングで同劇場にて
若松孝二追悼上映が行われます。
若松監督が好きだった「旅芸人の記録」と監督旧作を
2週間にわたって上映。
初日「11.25自決の日」上映後には井浦さんの舞台挨拶あり!
http://www.sakura-zaka.com/movie/1306/130622_wakamatsu.html

2013年06月24日

沖縄桜坂劇場「千年の愉楽」初日レポート!その1

6月21日、井浦新さん、高岡蒼佑さん、お二人が桜坂劇場入り。

若松孝二監督の最後の作品となった『千年の愉楽』の沖縄公開を前に、多くのマスコミのインタビューに答えていただきました。
沖縄の大人気ラジオ番組、ハッピーアイランド( http://blog.fmokinawa.co.jp/happy/ )の生放送の際は、多くのファンの方が見学に駆けつけ、お二人の沖縄入りを歓迎してくださいました。『千年の愉楽』の挿入歌をBGMに、『千年の愉楽』への思い、亡き若松監督への思い、そして、桜坂劇場で『千年の愉楽』と共にスタートする、若松孝二監督の追悼上映のお話等、たくさんお話してくださいました。
新聞や、雑誌の取材が終わったのは、夕方6時前。この日は夏至。沈む気配のない高い太陽に、お二人とも驚いていらっしゃいました。

6月22日、『千年の愉楽』『若松孝二監督 追悼上映』初日。

晴天の空の下、朝から長蛇の列。若松監督のいらっしゃる日、沖縄はいつも怖いぐらい晴れていたことを思い出します。この日も、ギラギラと照りつける太陽に、真っ青な空と真っ白な雲。そして、チケットを求める琉球美人の大行列。監督にもお慶びいただけている事と思います。
こうして、待望の『千年の愉楽』沖縄での初上映がスタートしました。
上映終了後、お二人の登壇を待つ会場の空気は、沖縄の夏にも負けない程の熱気に包まれました。
まずは高岡蒼佑さんがご紹介され、壇上へ。鳴り止まない拍手の中、続いて井浦新さんが登場。
興奮絶頂の中、高岡さんから、にこやかに「めんそーれー」と、沖縄の方言でごあいさつ。客席が一気におだやかな空気になりました。
ごあいさつの後は、早速質疑応答タイム。お二人の美しい瞳に見つめられ、緊張し、恥じらいながらも、皆さん、一生懸命質問し、感想を伝えてくださいました。

『出演されたきっかけは?』
『美しく生まれてしまったことでのご苦労は?』
『ご自身が演じた役について、井浦さんは彦之助を、高岡さんは三好を、それぞれどう感じますか?』
『若松監督の映画に、いつも強さと怖さを感じていて、気を張って観ていた。でも、今回は強さはあるけれど、おだやかに観られた。』
『三好は自分で命を断った。他の人とは少し違う。この血を断ち切りたかったのではないか、と感じた』

等等。
お二人とも、とても丁寧に答えられ、充実した舞台あいさつは、40分近く続きました。
「高岡くん、三好、すきでしょ。楽しく演じてるな、と思って見てた」と井浦さん。高岡さんは、「高岡君の好きにしていいよ」と監督に言われ、「“言ったな~。よっしゃ~、やってやる!”と思った」のだとか。もともと、おことわりするつもりで台本を読まれた高岡さんは、三好にご自身が重なったのだそうです。「他の誰かにこの役をゆずるよりは、お話をいただいた自分がやりたい」と思い、出演を決意されたのだそう。井浦さんは、物語の始まりともいえる大切なシーンの撮影を前に、監督から『このシーンがどれだけ大事か分かってるだろうな』と、かなりのプレッシャーをかけられたのだそうです。見事に、監督の期待に応えたお二人。お話を伺い、『もう一度観たいと思った』という感想も多く寄せられました。

舞台あいさつの後は、若松組のお約束、大サイン大会。お一人お一人と丁寧に接し、サインはもちろん、握手に写真撮影と、どこまでもサービス精神旺盛なお二人でした。
この後、ラジオに生出演後、劇場に戻り、井浦さんは若松孝二監督追悼上映、『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』の上映の舞台あいさつへ御登壇。その後お二人で再びラジオ出演。そしてテレビ出演、と、大忙しの1日でした。

『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』の舞台あいさつでは、骨折を理由に、一度は出演をお断りされた井浦さんが、若松監督に怒られてしまった、というエピソードや、出演を決意させた監督からの「新くんの三島をやってくれればいいんだ。三島に近づける必要はないよ」というラブコールの話、震災直後、迷う事無く撮影に挑んだ監督の強い意志と作品への思い等、井浦さんしか知らない監督の思い出がたくさん語られました。
「11.25自決の日...」の撮影後、立て続けに撮った『海燕ホテル・ブルー』まで話が及び、濃厚な舞台あいさつとなりました。


この日、井浦さん、高岡さん、そして劇場スタッフも、沖縄の夏の太陽に体力を奪われ、ややグッタリ。そこで、沖縄の珍味であり、ウチナーンチュの精力の源、「山羊(ヒージャー)」を食べに行きました!

沖縄桜坂劇場「千年の愉楽」初日レポート!その2

6月23日 慰霊の日


10:00の上映終了後、御登壇されたお二人は、12:00の合図を待って、観客の皆様とご一緒に、沖縄戦の戦没者の方々へ黙祷を捧げらました。
「この日の沖縄に、若松監督の映画と一緒に来られた事を感慨深く思う」「大切な日に、この作品の上映に足を運んでいただき嬉しい」とごあいさつ。前日とは違う、おごそかな空気の中舞台あいさつがスタートしました。
更にこの日は、運命的な出来事が重なりました。なんと、『千年の愉楽』の音楽を担当されたハシケンさんが沖縄入りされていたのです。井浦さん、高岡さんとは初対面ながら、飛び入り参加をご快諾くださり、奇跡の舞台あいさつが実現しました。


エンディングテーマ『ばんばい』の歌詞が監督から届いた際、ハシケンさんは、歌詞を読んだ途端、曲が浮かんだのだそうです。出来上がった曲を聞いた監督も、一発OKだったのだとか。
監督が、どのように映画と音楽を結びつけてきたのかを、全然知らなかった、という井浦さんと高岡さんは、お客様と同様にハシケンさんの御登壇を喜ばれ、ハシケンさんのお話に耳をかたむけていました。
「奄美の曲なのに、遠く離れた土地、三重の路地の風景に、不思議なぐらい、風や空気と同じようにとけ込んでいた。曲を聞くと、路地の階段をトントントンと登る風景が目の前に広がるよう。」と井浦さん。「三好が命を断つシーンの撮影のとき、スタンバイ中、監督が奄美の曲をずっとかけていてくれた。聞いているうちに気持ちよくなり、いつの間にか、気を失っていた。気づいたら撮影が終わっていた」と高岡さん。三好が乗り移っていたのかもしれないですね。
あまり知らない、若松監督と音楽との関係を覗き観た、ステキな舞台あいさつでした。


2回目の上映終了後、ハシケンさんも続けて御登壇いただきました。音楽のお話はもちろん、ハシケンさんからの映画への感想や、お二方の登場シーンを観ての感想、お互いへの質問等、トークは大変盛り上がりました。


そして、井浦さん、高岡さん、ハシケンさんを沖縄へお迎えしての濃密な3日間。最後の最後に信じられない出来事が待っていました。間もなく東京へ帰られる井浦さんと高岡さん、そしてお客様へ向け、ハシケンさんからの曲のプレゼント、というスーパーサプライズ。奄美民謡の面影が漂う美しいメロディーにのせ、強くて優しい島の姿を歌った名曲『美しい島(くに)』( http://www.youtube.com/watch?v=c7uz_Iy_Y-c )をアコースティックギターで弾語りしてくださったのです。
先程までの楽しい空気が一変。会場中が美しい音楽に酔いしれ、うっすらと涙を浮かべる方の姿も。井浦さんと高岡さんも、客席で、ご堪能されました。

最後はお三方揃って、名残を惜しみながら最後のサイン会。最後まで変わらずご丁寧な対応に、皆さん感激されていました。

『キャタピラー』の完成後、若松監督から桜坂劇場に突然電話がかかってきました。「映画ができたから、プリント(35mmフィルム)を送っといた。沖縄で最初にやっていいから、観といて。」と。約束通り監督は、慰霊の日に合わせ、来沖、『キャタピラー』は全国に先駆け、沖縄で先行上映をさせていただきました。
あれから3年。監督の思いを受け継ぐ井浦さん、高岡さんが、慰霊の日の沖縄にいらっしゃったことに、運命を感じます。
ここ数年、沖縄は、若松監督と共に夏を迎えています。今年も、本格的な夏がスタートしました。

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