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2007年01月 アーカイブ

2007年01月08日

'07年の撮影、始まる

1月7日

年末年始の休みを終えて、撮影再開。

050001_2 今日の撮影シーンは、赤軍派議長塩見孝也が、逮捕されるシーン。
塩見は、じつは赤軍派による日航機ハイジャック('70年3月)の実行予定日の10日ほど前に逮捕される。しかし、警察は、彼らに「よど」号を乗っ取って北朝鮮に向かう計画があるとは、まったく気がつかなかった。虚を突かれた警察は、面目を失い、その後赤軍派のメンバーに対して、「赤軍罪」とも呼ばれた人権無視の逮捕を繰り広げてゆく。
塩見を追い詰めたのは、彼自身の著書によれば、警官とともに、たまたま通りかかった小・中学生たちだった、という。その状況を再現すべく、子供たちのエキストラも登場。撮影は順調に進み、アップ後、スタッフは11日から川崎のセットで行われる撮影の準備に取りかかった。

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2007年01月11日

時代と向き合った者たち

1月11日

010007_2 今日から、川崎のセットで撮影。学生運動の拠点となった自治会室などが作り込まれた「川崎5スタジオ」は、広大なJFE(旧日本鋼管)の工場の端にある、かつて日本鋼管の組合事務所などが入っていた4階建てのビルだ。『夢見るように眠りたい』の林海象監督が、インターネットシネマ『探偵事務所5』撮影のために長期間借りている。足立正生監督の『幽閉者』もここで撮影された。

010001_4 今日の撮影シーンは、おもに連合赤軍幹部の森恒夫、永田洋子、坂口弘らが登場する場面。
1970年12月31日に、赤軍派の森、板東国男と、革命左派(京浜安保共闘)の永田、坂口、寺岡恒一は、埼玉県の旅館で初めて顔を会わせた。それからちょうど一年後の'71年の大晦日には、連合赤軍を結成した彼らは、榛名の山岳ベースで総括による最初の犠牲者を出す。寺岡も殺された。約一ヶ月後、粛清が続く山岳ベースから森とともに一時下山した永田は、恋人の坂口を捨て、森と一緒になる道を選ぶ。永田とともに逮捕された森は、さらに一年後の'73年元旦、東京拘置所で自ら命を絶つ。坂口は「あさま」山荘の銃撃戦で逮捕され、死刑を宣告される。永田にも死刑判決が下ったが、板東は日本赤軍に奪還されアラブに渡る……。
連合赤軍は歴史の一つの事実だが、1971年~'72年、連合赤軍という事実を通して時代と向き合った者たちには、一人の人間としての様々な生と死のドラマがあった。この映画は、そのドラマを描いてゆく。

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    板東国男(大西信満)     永田洋子(並木愛枝)     森恒夫(地曳豪)

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坂口弘(ARATA)            

2007年01月12日

すべてのシーンが、「あさま山荘」へ

1月12日

川崎のセットでの撮影は、順調に進む。若松監督は、この作品のシナリオに書かれたシーンを順番に撮る「順撮り」をしていない。シナリオを一度バラバラに分解して、必要最低限のシーンを、ロケ場所やセットに合わせて縦横無尽に撮影する方法をとっている。形になったコンテがあるわけではなく、イメージとしてのコンテが若松監督の頭のなかにあるだけだ。したがって、この映画の撮影現場は、そのイメージをスタッフや出演者がドックレースのように追いかけてゆく。
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010006_1 撮影現場で、彼はまず最初に、出演者たちに自由に演技させる。そして、その演技によってカメラの位置やアングルを決め、出演者への注文を出す。つまり、コンテ通りに撮影するのではなく、現実に合わせてコンテを創り出してゆくのだ。これが若松流早撮りの秘密だ。
今日撮影されたシーンは、のちに日本赤軍のリーダーとして名を馳せる重信房子が、のちに連合赤軍のメンバーとして榛名の山岳ベースで殺される親友の遠山美枝子に別れを告げる場面。重信は当時京大生だった奥平剛士と入籍してパスポートを取得し、警察の目を盗んでレバノンへ脱出した。それは、連合赤軍による「あさま山荘」の銃撃戦が終結する、まさに一年前だった。
02a0001_2 さらに、赤軍派の植垣康博や進藤隆三郎たちが、森から処刑を命じられた持原好子を離脱させる場面や、革命左派の吉野雅邦たちが逃亡した向山茂徳を処刑する場面も撮影された。両派は処刑に対する対応の矛盾を抱えたまま、連合赤軍としてやがて山岳ベースでの大量粛清を引き起す。


そして、すべてのシーンが雪の「あさま山荘」の銃撃戦へと続いているのだ。

撮影が進み、出番を終えた多くの出演者が現場を去ってゆく。

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2007年01月14日

川崎のセット発山奥のロケ現場行き「撮影快速」

1月13日

今日の撮影は、ハードだった。
午前8時に撮影を開始、午後8時過ぎに終了。予定していたシーンをすべて撮り終えた若松監督も、さすがに「今日は疲れた」とつぶやいて椅子に腰を下ろす。川崎5スタジオでの撮影が終わった。
030006_2 スタジオの中には、かつて大学で起きた『バリケード封鎖』の光景が出現した。1968年~'70年にかけて、全国各地の大学では不正経理や学生の誤認処分など様々な問題が噴出し、その問題を追及する学生たちが全共闘(全学共闘委員会)を結成。彼らは、授業をボイコットするために机や椅子などでバリケードを造り、校舎を使用不能にした。のちに連合赤軍を結成する赤軍派は、そんな騒然とした時代のなかで誕生したのだ。
030004_6 発端は、当時高揚する学生運動の一角を占めた政治組織ブント(共産主義者同盟)の内部対立だった。武装部隊による蜂起を目指す関西派と、大衆的な闘争を主張する関東派は、それぞれの指導者に対する内ゲバによって分裂。武装闘争を掲げ、塩見孝也(坂口拓)を中心とする関西派が共産同赤軍派を名乗った。この映画の主人公のひとり、遠山美枝子は親友の重信房子とともにその赤軍派に所属していた。
030003_5 今日のおもな撮影は、関東派のリーダーさらぎ徳二と関西派のリーダー塩見孝也が、交互に襲われるシーン。襲撃は、当時バリケード封鎖中だった大学の構内で起きた。そのバリケード封鎖を再現したのが、川崎5スタジオの3階と4階に組まれたセットだった。

      

030001_10 若松監督の友人、佐野史郎がさらぎ徳二役として出演。60人以上のエキストラを動員する大がかりな撮影になった。エキストラで出演する若者たちは、もちろん当時の大学の状況など知るよしもない。だが、ヘルメットを被り、タオルで覆面をし、ゲバ棒と呼ばれる角材を手にした青年たちが机や椅子で作られたバリケードの中に現れると、そこに40年近く前の時代が現実となって浮上してきた。
若松監督の作品は、その時代の若者に圧倒的に支持された。当時の若松作品を高く評価するミュージシャンのジム・オルークも、今日、撮影現場を訪れた。すると、ジムのファンだという佐野史郎が大感激。この意外な遭遇の一方、出番を終えた出演者たちは今日も次々に現場を去ってゆく。映画の撮影現場は、人が出会い別れる場でもある。

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川崎5スタジオでの撮影は、関東派に囚われた塩見孝也たちが、監禁されていたバリケード封鎖中の中央大学の学部長室から、消火ホースを使って脱出するシーンで終了。
スタッフと出演者は、来週再び宮城県大崎市の鬼首のロケ地へ戻り、この映画のクライマックスでもある「あさま山荘」の銃撃戦を撮影する。

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2007年01月17日

到着報告

1月17日

若松監督と辻カメラマンたちは昨日、この日記担当者は今夕、ロケ現場へ入った。出演者、スタッフなどの撮影本隊は明日、到着する。撮影は、いよいよ最終コーナーに入る。
今年の鬼首(おにこうべ)は雪が少ない。去年の同時期にロケハン時に比べ、積雪量は半分以下だ。昨年11月の前回ロケに続き、地球温暖化がこの作品の撮影にも影響を与えている。
しかし、どんな状況でも、その現実のなかで撮影を実現してゆくのが、若松流。明日も、撮影の準備にかけずり回る。

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2007年01月18日

ロケ本隊、到着

1月18日

今日のロケ地は、午前中から雪が舞っていた。070118020001
午後2時過ぎ、助監督・照明・録音などの後発スタッフが到着。午後5時頃、出演者が到着。午後6時半から宿舎の国民宿舎で、若松監督や先乗りスタッフを含め、全員で夕食。それぞれに明日からの撮影を思い、緊張に満ちた空気が漂っていた。

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昨年11月の鬼首ロケでは最大29人いた出演者も、今回は9人。その人数が、追い詰められた連合赤軍を表している。「あさま山荘」で銃撃戦を展開するのは、さらにそのなかの5人だ。連合赤軍は、12人の同志粛清、永田や森など指導者やメンバーの相次ぐ逮捕の果てに、ようやく彼らが掲げていた「銃による殲滅戦」に行き着いた。
夕食後、「毛沢東語録」の斉唱を録音。録音は、ロッジの玄関先、建物の外で行われた。しんしんと冷える闇の中で、雪が降る。明朝は一面の雪景色の中で、撮影開始。

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2007年01月19日

ファースト・カット……、地吹雪 !!

1月19日

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今日から、本格的な第二次ロケが始まった。昨日の夕方到着した出演者は、今朝いきなり風速20メートル近くの地吹雪のなかに放り出された。追い詰められた連合赤軍の9人が、警察の包囲網を脱出する場面だ。
070119030002_1 群馬県妙義山の籠沢の近くで刑事から職務質問を受けた坂口らは、厳冬の妙義山を越えて、長野県へ脱出を試みる。それは地元の登山家でさえ尻込みするようなルートだった。この作品では場所の設定を変えているが、描かれる自然の厳しさに変わりはない。
 目も開けていられないような地吹雪のなかを、出演者たちは「毛沢東語録」の一説を斉唱しながら進んだ。連合赤軍のメンバーが実際に「毛沢東語録」を斉唱したかどうかが問題なのではない。この映画は事実を再現することを目的としているのではなく、その事実を通してメッセージを伝えることにある。つまり、かつて、中国の革命家毛沢東に心酔した日本の若者たちがいて、その一部が連合赤軍を作った事実を、まさに映画的に表現するのが、この映画の目的だ。 070119030003_2
撮影終了後、出演者たちはロケバスのなかで、放心状態に陥った。その光景を残そうとしたスチール・カメラが、たちまち結露したことでも、ロケバスの外の厳しさがわかろうというもの。だが、彼らは満足気でもあった。1972年日本で起きた《長征》の幻が、2007年1月、ここ鬼首に出現した。

                                      

いくら雪が少ないとはいえ、本格的な冬が始まった宮城県と山形・秋田県境の山の中で、「実録・連合赤軍」の最後の撮影は進む。

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2007年01月20日

土曜日

1月20日

今日は土曜日だった。週休二日制が広まって以来、土曜日は休日というイメージが強くなってしまったが、土曜日は本来、午前中は働き午後は休む日だ。その本来の土曜日が、現場に戻ってきた。

070120030001_2 撮影は、若松監督名物「朝飯前」で始まった。朝飯前とは、文字通り朝食の前に撮影をすること。今朝は午前6時、まだ闇に包まれて、山のなかへ出発した。出演者や監督が6時に出発するということは、撮影や照明などのスタッフは、それよりずっと前に現場で準備を始める。そんなハードな撮影でも、「朝飯前」」なのだ。

慌ただしい朝食後は、雪中行軍の場面の撮影。そして、スキー場の近くで、警察に追われる彼らが逃亡するシーン。スキーヤーやボーダーが溢れるスキー場に、キスリング(昔の横長型リュック)を背負った場違いな一団が現れた。映画は、カメラが切り取ったフレームのなかに周囲とは異次元の世界を生み出す

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070120030004 そして、今日は「土曜日」。撮影は午前中で終わり、午後3時過ぎから、「あさま山荘」として使われる予定の若松監督の山荘の庭で、バーベキューパーティが開かれた。メニュー・メインは、雪に「植えられた」松島産の牡蠣の素焼き。牡蠣は、近くに住む若松監督の実弟が差し入れた。


070120030007 新鮮な牡蠣は、生もイケるが、焼いたほうが美味い。……かつて味わったことがない美味に、一同笑顔がこぼれた。メイキング担当の竹藤佳世が、この日30ン歳の誕生日を迎えたことが伝えられると、みんなから拍手がわき起こった。バース・ディケーキこそないものの、きっと彼女には一生忘れ得ぬ誕生日になったに違いない。
厳しい撮影現場とは異なる親密な空気がそこにはあった。集まった全員が、同じ一つの作品作りにそれぞれの力を出し切っているからこそ生まれる、貴重な時間だった。
日が落ちてからも赤々と燃える焚き火を囲んで、パーティは続いた。

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2007年01月21日

ゆくえ

1月21日

070121050002_2 登場人物は、とうとう最後の5人になった。坂口弘(ARATA)板東国男(大西信満)吉野雅邦(菟田高城)加藤倫教(小木戸利光)元久(タモト清嵐)の兄弟だ。この5人が、「あさま山荘」で銃撃戦を展開する。実在の彼らだけではなく、撮影現場にいる出演者たちも、その5人が最後になる。
この作品の出演者たち、とくにこの山奥のロケ地へやって来た人たちには、ある種の連帯感が生まれたそうだ。もし、そうなら、実在の5人は、その連帯感を「粛清」で断ちきったのだろうか? いまここに残っている出演者たちを観ていると、きっと彼らも、自らが粛清した仲間たちに最後まで連帯感を持っていたのではないか、と思う。
070121050003_1 今日は、撮影スッタッフがエキストラで何人か出演した。彼らは、機動隊員に扮して走ったあと、ほとんど死にそうになって雪の上に倒れた。そのヘナチョコ機動隊員に追われた5人の出演者にも、肉体的にかなりきついシーンだったに違いない。
撮影現場の行く先には、完成した作品がある。同志を粛清した連合赤軍の行方は銃撃戦だった。果たして、この映画の出演者たちの行く先は、どこにあるのだろう? 東京に戻ってからも、演じた役からなかなか抜けきれない、という、言葉も耳に残る。

もし、この作品が、関わった人たちの生き方に何らかの影響を与えるのであれば、それもこの作品が持つ意味の一つである。
明日、カメラは空を飛ぶ。

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2007年01月22日

ヘリコプターで空撮

1月22 日                                  

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今朝は、気温-6℃。冷え込んだ。
午前9時半ぎ、撮影用のヘリコプターが仙台から飛来。連合赤軍の残存メンバー5人が、警察の包囲網から脱出しようと雪原を走るシーンを上空から撮影した。ヘリコプターのカメラだけではなく、地上のスノーモービルのカメラも彼らを追う。やり直しがきかないぶっつけ本番だけに、モニターをチェックする辻カメラマンの眼差しも厳しかった。
この大規模な撮影を、地元の河北新報、読売新聞、東北放送が取材。若松監督は、作品の意図を語った。監督の軸足は、この映画の製作を決意したときから、まったくブレていない。つまり、連合赤軍という「事実」を残すためにこの映画を撮っている、と。

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そのあと午後、10年あまり前に建てた若松監督の山荘を、「あさま山荘」として撮影するための準備が始まった。家財道具や家電製品が次々に運び出され、まるで引っ越しのようだ。だが、再び使える。しかし、ここは再び使えるかどうか、わからない。「あさま山荘」として撮影するということは、銃撃戦の末、機動隊が建物を破壊して突入することを意味する。若松監督は、「映画で建てたのだから、映画で壊したって惜しくはない」と言う。監督が私財をなげうつこの映画のクライマックスは、いよいよ明日から撮影される。

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2007年01月24日

あさま山荘

1月23日

警察の包囲網が縮まり、連合赤軍の残存部隊坂口ら5人は、ついに「あさま山荘」に乱入した。某楽器メーカーの保養所だったそこには、客が出払った留守を守る管理人の妻がいた。彼らはその妻を拘束して「あさま山荘」に立て籠もる。だが、彼女が《人質》ならば当然求めるであろう、解放の交換条件や要求を、彼らは一切出さない。警察側は彼女を人質と呼んだが、連合赤軍の5人には彼女が人質だという意識は薄かった。

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(↑管理人の妻、牟田泰子[奥貫薫])

070123070003 日本で初めて、革命を目指す者たちが起こした銃撃戦、つまり「あさま山荘」事件をその内部から描く映画は、いままでなかった。いや、むしろその内部を描きたいからこそ、この作品は連合赤軍が生まれる過程を撮り、彼らが犯した過ちを描いてきたのだ。さらに、実際の関係者と関わりのあった若松監督でなければ知り得ない事実も、登場する。まさに、この「あさま山荘」の内部こそが、監督がこの映画に託すメッセージそのものだ。
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        もし、「あさま山荘」の銃撃戦とそこに至る歴史を克明に再現しようとしたら、制作費はとてつもなくかかるだろうし、撮影期間も計り知れないだろう。だが、この連合赤軍は、'60~'70年代を同時代として生きた映画監督ならば、撮らざる得ない、いや撮らなければならないテーマだった。若松監督はそれを現実的に実現しうる作品として撮影している。
映画の撮影現場は、非日常的な世界だ。だが、その非日常的な現場に何日も身を置いていると、それ自体が日常になってくる。

若松監督やこの日記作成者は、今日から「あさま山荘」として撮影が始まった山荘に、ずっと泊まり自炊をしていた。だが、今日、その日常的な場所が、突然、窓がバリケードで塞がれ、床に物が散乱する非日常的な空間に変わってしまった。
若松監督があえて自分の山荘を「あさま山荘」として使おうと決めたのは、あらゆる日常性を否定したかったからだろう。彼は、しばしば「慣れっコ」は嫌だと語る。映画を撮り続ける監督・若松孝二の原点は、そこにあるのかもしれない。

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攻防戦、始まる

1月24日

070124080003 今日から、いよいよ「あさま山荘」の攻防戦の撮影が始まった。山荘には、催涙弾が撃ち込まれ、なかは白い闇に覆われる。いちどでも催涙弾の洗礼を受けた者なら、その苦しさがわかるはずだ。実物の催涙弾が使われたわけではなかったが、出演者たちは発煙筒やスモーク筒に演技ではなく咳き込んだ。「あさま山荘」攻防戦の後半は、連日、警察の催涙弾の射撃が続いた。
070124080001 警察が強行突入を図ったのは、連合赤軍の5人が「あさま山荘」に侵入してから10日後だった。なぜ、そんなに時間がかかったのか? 当時の後藤田警察庁長官が、「全員生きたまま逮捕しろ」という指令を出したからだ。警察の上部は、連合赤軍の「あさま山荘」籠城が始まった頃には、妙義山で逮捕した奥沢修一などを通して、同志粛清の事実をほぼつかんでいた。だが、警察側はその発表を抑えた。それは、反権力の銃撃戦を集団殺人の印象にすり替えるためだった。
070124080004 また、連合赤軍は「見せしめ」にもされた。籠城したメンバーの母親や父親を呼び寄せ、その口から投降を呼びかけたのだ。なかには、すでに処刑されていた寺岡恒一の親まで含まれていた。もちろん、彼らはそれに応じないばかりか、銃の発砲で返答を浴びせたのだが……。
連合赤軍による「あさま山荘」銃撃戦は、日本の太平洋戦争後の時代、いわゆる[戦後]の転換を告げる出来事だった。警察側の戦術には、日本が引きずる家父長制度も利用された。それが、親による投降勧告だった。家族の崩壊は、いまでも衝撃的な事件を多くひき起こしている。
彼らはその後の日本が進む現在の姿を、予感していたのだろうか?彼らが目指したのは、彼らが掲げる共産主義ではなかったと思える。「あさま山荘」で響いのは、いまも続く「日本」に終焉を告げようとする銃声でもあった。
そして、いま、この作品も監督のイメージと出演者の演技との間で、最後の攻防戦を迎えている。

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2007年01月25日

放水

1月25日

070125a0001_2 「あさま山荘」攻防戦撮影第二日目は、大崎市消防団鳴子支団第六分団有志の協力により、雪が舞うなか、警察側の放水による攻撃、という設定で始まった。放水の威力は凄まじい。放水が始まると、瞬く間に視界が消える。そして、撃ち込まれる催涙弾や発煙筒。出演者だけではなく、監督、カメラ、照明、音響などのスタッフも全員がビショ濡れになり、咳き込んでの撮影だった。
氷点下10℃にもなる真冬の軽井沢で、この放水や催涙弾の攻撃にに連日耐えた連合赤軍メンバーの精神力に、今更ながら驚かされる。                                                                      
                                                                                                                                                                      

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070125090005 実際に「あさま山荘」制圧に使われた催涙ガス弾は、3,126発。発煙筒326発、ゴム弾96発、現示球(照明弾の一種)83発、放水量15.85トン……。動員された警察官は、警視庁からの応援548名を含め1,635名。うち、山荘の攻撃部隊は382名、特殊装甲車9台、モンケンと呼ばれるビル解体用の鉄球を吊り下げた10トンクレーン車1台、高圧放水車4台だった。
たった5人の連合赤軍メンバーを相手に、これだけの物量を動員して警察側は何をしたかったのか? ……革命を主張し、銃を手にした彼らに、平和と民主主義を標榜する権力の人道主義なるものを宣伝したかったからだ。権力の善意?、不変?、強大さ……などを、視聴率89.7パーセントを記録したテレビを通して、アッピールしたかったからだ。
070125090002 今日のもうひとつの重要な撮影シーンは、彼ら5人と管理人の妻・牟田泰子とのやりとりだった。このやりとりのなかにこそ、「あさま山荘」での事実と意味が描かれている。「あさま山荘」を内部から描いた映画は、これまでなかった。若松監督は、それを描きたかったからこそ、この映画を撮ろうと決意した。
明日は、いよいよ山荘を破壊した(もうすでにグチャグチャだが)警察の機動隊員が、彼らを制圧するシーンの撮影だ。そして、そのシーンで、この作品の撮影は終了する。

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2007年01月26日

突入!!……、そして、撮影終了

1月26日

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激しい放水と催涙弾の白煙のなか、抵抗をけして止めない坂口、板東、吉野、加藤兄弟を機動隊員が押しつぶした。それが、「あさま山荘」に籠城した連合赤軍の5人が逮捕された一瞬だった。そして、あしかけ3ヶ月に及んだこの作品の撮影が終わった瞬間でもあった。昨年11月に、革命左派(京浜安保共闘)が実際に初めて山岳ベースを設けた奥多摩や、軍事訓練中の赤軍派が大量逮捕された山梨の大菩薩峠で始まった撮影は、事実がそうであったように真冬の山中で、放水を浴びながら幕を閉じた。

070126a0001 今日、若松監督が10年ほど前に建てた山荘は、重機で破壊された。実際に、警察が「あさま山荘」を制圧するとき、モンケンと呼ばれる鉄球で壁に穴を開けた場面を撮影するためだ。しかし、モンケンは、最近使われなくなったため、代わりの重機が使われた。この山荘を破壊する計画を聞かされた誰もが、最初に「もったいない!」と耳を疑った。だが、いまこうして目の前で破壊されてゆく光景を見ているると、若松監督の、そうまでしてこの作品を撮りたかった<想い>が伝わってくる。その<想い>があったからこそ、この作品の撮影は、三ヶ月かけてここまで漕ぎ着けた。

070126a0002 撮影されたのは事実の忠実な再現ではないが、「あさま山荘」を語るときに外せない事実として、山荘の破壊は行われた。さらに、警察が大量の放水を浴びせかけ、催涙弾を撃ち込んだように、撮影でも昨日に引き続き地元の消防団の協力により、大量の放水が行われた。少ない予算、限られた撮影日数のなかで、若松監督は最大限の撮影を行ってきた。それは、「映画は金ではない」という言葉を、ある意味で実践してゆく作業でもあった。金がなければ映画が撮れないのは事実だが、その事実を超える作品もある。

07012610a0003 いちど放水が始まると、山荘の内部はその水飛沫で何も見えなくなる。昨日に引き続き、出演者・スタッフがずぶ濡れの撮影になった。吹き飛ばされそうな水圧のなかで5人は抵抗を続け、ついに逮捕される。それは、撮影後、ある出演者の足首が曲がり麓の病院に運ばれるほど、迫力に満ちたシーンだった。さいわい、彼は脚の筋を傷めただけで、入院が必要なほど重傷ではなかったが……。
そして、「あさま山荘」の銃撃戦が終わったとき、日本の戦後というひとつの時代が終焉を告げ、豊かさの幻想に満ちた現在の日本が始まった。「彼らが間違っていたとか、正しかったとかは、この作品を観た人が考えればよいことだ」、と若松監督は言う。この作品は、<いまの日本>の成り立ちを問い続ける。

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2007年1月26日、午後3時。映画「実録・連合赤軍」の撮影、終了。

下の記念写真に写っている人たちだけではなく、その何倍もの人たちの労力と熱意、制作費を寄せてくださった多くの方々によって、この作品は無事撮影を終えることができた。

ここに写っていない人たちに、改めて感謝の気持ちを伝えます。

ありがとうございました。

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お知らせ:

この作品は撮影を終え、今後ポストプロダクションに入ります。その経過を、毎日更新ではありませんが、随時アップします。映画の構想段階から、撮影、作品の完成までをインターネット上でリアルタイムに公開する試みは、おそらく日本で初めてです。今後もご愛読をお願いします。(B)

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